教育 2013.08.25-08.31  

僕の偏見かもしれないけれど、教育制度は改革を繰り返すほど、逆に悪くなっているような気がしてならない。なぜなのだろう。もし改革が教育の現場とは離れたところで決められているとしたら、それは頷ける。そうでないことを願うけれども。

教育の難しさは、すべての人がそれなりに一家言あることだ。国や自治体の教育関係の会議では、有識者がそれぞれの自説を強硬に主張する。でも、それに応じた朝令暮改の改革の犠牲になるのは子どもたちだ。「ごめんね、君の教育は失敗だった」は許されない。子どもを実験台にしてはならない。

教育をどうすればいいのか。学者は、客観的に科学的な方法で方向を見出そうとする。統計はそのための有力な武器となる。しかし、それは学会論文にはなるけれども、あくまで全体の傾向に過ぎない。教育は統計には現れないところに本質がある。統計では少数の例外は切り捨てられる。

教育の現場で目の前にいるのは、それぞれ名前がついた子どもたちだ。霊長類研究は、欧米と日本で違うと聞いたことがある。欧米では、サルは番号で区別して、結果は統計処理される。日本では、それぞれに名前をつけて、その行動をひたすら追う。教育は後者に近い。子どもの数だけ教育がある。

教育は本質的に効率が悪いものだ。99人の子どもは問題なくても、1人問題がある子がいれば、その子だけのために99%の時間を使うこともある。効率から言えば、その一人は切り捨てた方がいい。でもそれは許されない。効率だけを求めたら、教育はできない。

子どもを持つ親にお願いしたいことがある。学校教育で一番大切なことは先生を尊敬することだ。親は、まかり間違っても、子どもの前で先生の悪口を言ってはならない。その時点で、子どもは先生を信用しなくなる。親のその一言で、自分の子どもの学校教育が終る。

教育には「こうすればいい」という王道はない。仮にあったとしても、それを一方的に子どもたちに押し付けたら、教育ではなくなる。子どもたちは悩みながら成長し、大人となる。先生は悩みながらその手助けをする。そのもとにあるのは信頼関係。それが教育なのだろう。