研究と競争 2013.09.01-09.07

僕は研究者として生きていた。でも失格だったのではないかと思うことがある。他の研究者と張りあって競争することが好きになれなかったからだ。成果をだすことよりも研究そのものが好きだったからだ。もし研究が競争によって成り立っているとすれば、僕は失格だった。

僕の研究者人生には、論文にならない、あるいは論文にしていない研究が山ほどある。成果を発表して競争するという立場からは、それはすべて無駄だったことになる。でも僕はそれで満足していた。若手研究者には決して勧められないけれども、僕はそうだった。

競争が嫌いな僕は研究者として失格だったけれども、幸い僕の周りには優秀な研究者が大勢いた。彼ら彼女らのおかげで、研究室では胸を張れる成果を出せた。それに関わることによって、僕も最低限のことはできた。その意味では運が良かった。幸せだった。

研究では世界のトップデータを出すことが求められる。競馬のように競争するコースが決まっている場合はそれでいい。目標がはっきりしているから、競走馬は目隠しをつけてひたすら走る。でも研究はそれだけではない。新たな目標を自ら定めて、コースそのものを設計する研究があっていい。

あるとき先輩の研究者からこのように言われた。研究は早すぎてはいけない。研究には旬がある。その旬を見極めてタイミングよく成果を出せば、業績が評価される。研究者として競争に勝つためにはその通りかもしれないと思いながら、僕は少し寂しかった。

僕が競争は嫌いだったと、若い研究者に対して公言することには躊躇がある。それは僕にしか通用しない論理かもしれないからだ。競争させなければ研究は進まない。そう考えている研究管理者は多い。そのもとでは競争に勝たなければならない。若い人はぜひ夢と競争を両立させてほしい。

研究者にとってノーベル賞は一つのゴールである。そのゴールを目指して研究者は競争する。ノーベル賞もとれなかった僕が言う資格はないけれど、単純な好奇心でする研究があっていい。自分だけの夢を実現する研究もあっていい。少なくともそれを許すものでなければ、研究とは言えない。