レッテル 2013.11.24-11.30

僕の嫌いなことに、レッテル貼りがある。物に貼るのはいいけれど、人に貼るのは止めたほうがいい。それは差別にむすびつく。人を陥れることにもなる。でも、人はレッテル貼りが好きだ。それはなぜなのだろう。

近世の始めに、ヨーロッパで魔女狩りがおこなわれた。それはまさにレッテル貼りであった。ほとんど根拠がないのに、ひとたびレッテルが貼られると、それは絶対的な力を持って人の命を奪った。それは決して過去のことではない。魔女狩りは、いつの時代にも形を変えて存在する。

かつて戦争のときは、平和を主張しただけでアカというレッテルを貼られた。日本文化の良さを主張しただけで、国粋主義者呼ばわりされたこともある。自分に敵対する勢力を手っ取り早く排除するには、レッテル貼りが一番効率がいい。

人は分類することによって納得する。それが他者に向けられたときはレッテルになる。その人にレッテルを貼って、もっぱらレッテルによって評価する。その人をきちんと見るよりも、自分のなかにすでに分類項目としてあるレッテルで評価した方がたやすいからだ。納得しやすいからだ。

あの人は○○人だから、○○という立場にあるからと、まずはレッテルを貼って人を批判する。そのほとんどは先入観からの批判となる。人の行動や意見は、確かに立場という構造に制約されることも多い。でも、そう決めつけて批判することは、それ自体が批判の対象となる。

肩書で人を評価することもレッテル貼りかもしれない。肩書が記されている名刺のやりとりは、互いにレッテル貼りをおこなう行為だ。それは仕事では必要なことであるけれども、肩書はあくまで人の一部だということを、忘れないようにしたい。

僕はどのようなレッテルを貼られているのだろうか。どちらかと言うと、僕はあまり気にしない生き方をしてきた。僕は僕でしかないからだ。人が僕にレッテルを貼るのは勝手だけれども、自分で自分にレッテルを貼りたくない。