近代社会は効率を追い求めてきた。何事にも、効率を上げるために無駄の削減が叫ばれる。それは当たり前とされる。でも本当にそうなのか。効率は、すべてにおいて最優先なのか。効率で計れないところに、人生の大切なものがあるのでないのか。この歳になって、そう思うことが多くなった。
競争社会で生き残るためには、効率化は欠かせない。産業社会はまさに効率化の産物である。それには分業が欠かせない。生産は産業界にまかせて、個人はもっぱら消費に励んだ方が、社会としては効率がいい。でも、それで人は本当に幸せなのだろうか。
効率を重視する社会では評価がつきものである。いまや評価の時代である。何事も数値化してその達成を求める。評価できないものは、ないものと見做して無視する。達成すべき目標が数値化できて、かつ短期間で達成できるときはそれでいいかもしれない。でも、それはすべてではない。
人と人の関係は効率で計ることはできない。効率を重視するということは、自分中心に考えることだ。効率的に付き合った相手とは、それだけで終わってしまう。効率を考えずに無駄とも思える時間を、どのくらい一緒に過ごしたか。人と人の真の関係は、それで決まる。
子育てや教育も効率で評価することはできない。受験の合格のように達成目標がはっきりしている時はそれでいい。一方で、たとえば人間力は、決して効率的に育てることはできない。試行錯誤を繰り返す、ときには失敗をする。その一見無駄なプロセスが人をつくる。
効率のみを追い求める社会は、もしかしたら、心の余裕をなくしているのかもしれない。余裕がないから、すぐに実現できる目先の成果だけしか見えなくなる。目に見える数値だけを信仰する。いまの日本はそうなっているように見える。しかし、それでは本当に大切なものを失うことになる。
効率よく生きるには、目標達成のためにかける時間は少ない方がいい。そこでは時間を罪悪視している。でも、残された時間が少なくなった僕は、その時間を大切にしたい。時間そのものを楽しみたい。効率的でない人生を、無理かもしれないけれども、追い求めて見たい。