病院の待合室  2013.12.22-12.28

病院の待合室には、独特のゆったりとした時間が流れている。早足に歩く人はほとんどいない。みな、いまの時間を大切にしている。いま生きていることに感謝している。僕は、その時間が好きだ。それは、改めて人間について、人生について考える時間でもある。

病院の待合室にいる人は、みな必死で生きている。それをつくづく感ずる。でも、一方で驚くこともある。それぞれ病と戦っているはずなのに、なぜかみな優しい顔をしている。社会のストレスがないからだろうか。それとも病が、その人を優しくしているのだろうか。

病院の待合室で、老夫婦が互いに労わりながらゆっくり通り過ぎて行く。80代だろうか、90代だろうか。二人で文字通り支え合って生きている。その後ろ姿を見ながら、思わず、その夫婦の末永い幸せを祈る。

病院の待合室で、興味深いことに気づいた。ほとんど携帯の画面を見ている人がいない。別に禁止されているわけではない。逆にいま電車の中では、ほとんどの人が携帯を見ている。年齢層が単に違うからなのか。あるいは病気をすることによって、社会とは超越した人生を送っているからなのか。

病院の待合室にも、ときどき姦しいグループがいる。まるでサロン、井戸端会議だ。大きな声で話題は次から次へと発展する。診察室から中に入るよう呼ばれているのに気づかない。この人たちは、病院で姦しく話すことによって元気になっているのかもしれない。それも病院の機能なのだ。

病院の待合室にいる人は、それぞれの病とつきあいながら生きている。もしかしたら、自分は健康だと思っている人も、実は病に罹っているのかもしれない。人はみな、もともと病とともに生きている。それに気づいているか、忘れているかの違いだけなのだ。

病院の待合室、そこは診療科によっては人生の終着駅の待合室となる。一方で、病院には産婦人科もある。そこは始発駅だ。病院の待合室は、人生という旅のさまざまな待合室になっている。その待合室で、僕はこれからの人生の旅支度をする。

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