ステレオタイプ 2014.01.05-01.11 

正月休みに、少し時間があったので、溜まっていたテレビドラマの録画をまとめて見た。それぞれ面白かったけれども、そのドラマに登場する役柄が、あまりにもステレオタイプ的になっていることが気になった。

ステレオタイプは、固定概念とも訳される。ここでのステレオは立体音響ではなくて、もともとは固いという意味で、印刷用語として決まった形の文字しか印刷できない鉛版を指したらしい。文字だけならいいけれども、文章や使い方までもみな決まってしまうと、それこそステレオタイプになる。

ドラマのステレオタイプ的な役柄では、組織の上役は保身しか考えていない。官僚は役所の縄張り争いに躍起になっている。政治家は選挙区への利益誘導しか関心がない。そうでない人を僕は数多く知っている。彼ら彼女らは、そのステレオタイプ的な見方と戦っている。

ドラマにおいて、ステレオタイプ的な役柄を多く登場させれば、視聴率は稼げるかもしれない。恐ろしいのは、視聴者が本当にそう思い込んでしまうことだ。ドラマと現実が区別できなくなると、人をステレオタイプ的に見るようになる。ニュースもステレオタイプ的に理解してしまう。

ネットも、それが炎上すると、ステレオタイプ的な発言が多くなる。なぜだろうか。自分が漠然と思っていることを他者も発言すると、正しいと信じてしまう。それを心理学では、合意的妥当化という。自分の考えが肯定されれば心地いい。結果として炎上してしまう。

ステレオタイプは分かり易い。たとえば血液型は典型的なステレオタイプだけれども、日本人は好きだ。血液型による人の分類は、差しさわりのないものが多いけれども、もし○○型は犯罪者が多いというような説が流布されたら、それは明らかな差別になる。

ステレオタイプは、実際にそのような傾向が仮にあっても、そう決めつけてしまうことに問題がある。政治では大衆を扇動するためにそれを利用する。弱者に対して向けられると差別を生む。ネットは暴力の温床になる可能性がある。ステレオタイプ的な見方や考え方には悪魔が潜んでいる。