遊び  2014.02.09-02.15

人は遊ぶ。とくにストレスに満ちている現代社会では、遊びはストレスを解消するという積極的な意味を持つ。それによって疲れを癒すことができる。さらには遊びはエネルギー源である。遊びがなければ、人は現代社会を生きていけない。

子どもはよく遊ぶ。子どもの役割は大人になることであり、そのために大人の社会のさまざまなシミュレーションを体験する必要がある。遊びは、それを自ら進んで楽しくおこなうしくみとして、多分遺伝子に記されている。遊びがなければ、子どもは大人になれない。

人が作る機械でも遊びが大切である。歯車では接合部分にわずかな隙間を設ける。それを歯車の遊びという。歯車がちょっと熱で変形しても、遊びがあれば吸収できる。車のハンドルやブレーキにも遊びがある。ちょっと操作が揺らいでも運転に影響しない。遊びは一種の安全装置である。

機械の遊びは、機械にとっての余裕である。同じ意味で、人の心にも余裕としての遊びがほしい。遊びがあれば、自分自身や環境に多少の揺らぎがあっても、それを吸収することができる。もっと積極的に、曖昧さあるいは不確実性という揺らぎを楽しむことができる。

遊びの反対語は何だろう。子どもにとっては勉強、大人にとっては仕事かもしれない。いずれも必要に迫られて、あるいは他から強制されてすることが多い。これに対して遊びは必要がなくとも自ら進んでする。強制されないから遊びは楽しい。役に立たないから遊びは楽しい。

僕にとって遊びの反対語は真面目だ。真面目はもちろん大切だけれども、遊びは真面目になってしまったらつまらない。それは遊びではなくなる。遊びは緊張になる。遊びはいい加減な方がいい。いい加減にするから、遊びは遊びになる。結果がどうなってもいいから、気楽に楽しめる。

遊びは文化だ。毎日の生活に追われるのではなくて、遊びという余裕があるから、人は文化を生み出してきた。現代社会は、遊びを仕事や勉強と対立するものとみなし、ときには罪悪視してきた。遊びは決して悪いことではない。むしろ人の本質として、文化として、積極的に評価されていい。