人は脳が発達することによって特別な能力を獲得した。未来を予測する能力である。それによって優れた文化を築いてきた。 一方で、人はその予測能力によって、自分が死ぬ存在であることを知ってしまった。死の恐怖に怯えるようになった。
人は占いや予言を通じて未来を知ろうとする。それは、科学が(天体運動や気象変動などのごく一部を除いて)未来の予測にはほとんど無力であるからだ。占いを遊びとしている間はいいが、かつてのノストラダムスの大予言のように、マスコミがそれをもてはやすと、社会混乱がおこる。
パソコンの提唱者のアランケイの有名な言葉「未来を予測する最良の方法は、それを発明してしまうことだ」。未来は予測するものでなく、創り出すものである。日本でも、未来を予測できた政治家は田中角栄だと言われる。なぜなら自分自身で日本列島を改造してしまったからだ。
いま社会はめまぐるしく変動している。来年を予測することは難しい。でもときどき思うことがある。来年は難しくても、そのずっと先の10年後、さらには100年後の予測の方が易しいのではないかと。短期的な変動に目を奪われていると、長期的な展望ができなくなる。
少し専門的になるけれども、統計的な予測理論たとえばウィーナーやカルマンの理論では、未来の値として確率的に最も尤もらしい値を予測値とする。これに対して、非線形的な複雑系では、ほんのわずかな初期条件の違いで大きく未来が違う。地震はそのような現象の一つだ。だから予測は難しい。
ある若手の宇宙物理学者に聞いた。宇宙の未来と自分自身の未来、どちらの予測が難しいか。彼の答えは自分であった。宇宙は単純だから未来を予測できる。それに対して自分の人生は複雑系である。ちょっとした縁が未来の自分を大きく変えてしまうかもしれない。人生は数式にのらない。
人は予測する動物である。その予測はあたらないかもしれない。それでもいい。人生は予測できないから面白い。僕の人生も残り少なくなったけれども、「予測できない人生を楽しむ」そして「知らない自分に会いに行く」。そのような人生を僕は送りたい。