学歴  2014.04.13-04.19

僕は自分のプロフィールに、原則としていわゆる学歴は記さない。学歴と職歴の区別がつかないという特殊事情もあるけれど、それよりも今の自分にとって意味がないからだ。一方で、社会では学歴は独り歩きする。得体の知れない学歴について改めて考える。

いわゆる学歴も、それだけでいいこともある。その学歴に対するコンプレックスがなくなることだ。人は自分よりも上の学歴に対してコンプレックスを持ちやすい。それがなくなる。自分でも手に入れることができたのだから学歴なんていい加減だと、そう自覚できればもっといい。

東大生になるよりも東大教授になるほうが易しいといわれる。大学生になるには高卒の学歴が必須だけれども、教授にはそのような決まりはない。それはどこの大学も同じはずだ。ところが、最近では博士号という一種の学歴を要求する大学が多くなった。大学教授も学歴が重視されるようになった。

卒業生がその学歴を社会で誇れるようにすることは、大学に課せられた重要な使命である。大学にとって卒業生は、大学からの社会に対するメッセージだ。そのメッセージが社会を変えていけば、社会は自然にその大学の学歴を尊重するようになる。

学歴を形式的でなく実質的なものにするには、大学の出口管理が必要になる。それを厳しくして、たとえば入学者の半数が卒業できない事態となったら、社会はそれをどう見るだろうか。拍手するのではなく、逆に教育する側に問題ありとしないか心配になる。それでは教育は何も解決しない。

学歴至上主義に対しては風当たりが強いけれども、僕は学歴は大切だと思う。でもその学歴は、どの大学を卒業したかというような形式的なものではない。文字通りその人の「学びの歴史」だ。大学を卒業しても、そこで学んでいなければ、それは学歴とは言わない。

英語のstudent の語源は、「熱中する、努力する」という意味を持つラテン語の studeoだ。新たな知に感動して、それに熱中する。そして更なる知を求めて努力する。そのような熱意と努力の歴史が、学歴の真の意味だ。学歴は一生の宝物になる。その学歴の積み重ねは一生続く。