上手な似顔絵は本人以上に似ていると言われる。なぜなのだろうか。たとえば僕が大好きな山藤章二さんの似顔絵は思わず笑ってしまう。一般的には顔を見て笑うことは失礼にあたるけれども、そこにはそれを超えた何かがある。
顔の特徴を物理的に何らかの形で数値化して、それと同じ数値を持つ似顔絵を描けば、おそらくよく似た似顔絵が出来上がるであろう。しかし、数値が近いということだけでは、写真がその人に一番似ている。それではつまらない。上手に描かれた似顔絵は、写真以上に似ている。どこが違うのか。
コンピュータで似顔絵を自動的に描くときは、次のようにすることが多い。まず標準的な平均顔を計算しておいて、与えられた顔(写真)を平均顔と比較する。その平均顔との違いがその人の個性であるから、その個性を強調した顔を合成する。そうすれば、その人らしい似顔絵ができあがる。
似顔絵は連想ゲームかもしれない。渥美清の顔から下駄を連想する。ならば、渥美清を下駄に似せるのではなく、逆に下駄を渥美清に似せる。そのような似顔絵をコンピュータで自動的に描けたら面白いと、研究室で話題にしたことがあった。そのままになったけれども、今でも気になっている。
顔はイメージだ。一流の似顔絵師が有名人の似顔絵を描くときは、その有名人のイメージを重ね書きする。有名人は、いい悪いは別としてさまざまなイメージを持たれている。単なる顔かたちではなく、そのイメージを強調すれば、いい似顔絵が描ける。
似顔絵は、描く人と描かれる人、鑑賞する人の3者のゲームであるとされる。新聞等の風刺画では、描かれる人が嫌がるように描くと、鑑賞する人から喝采を浴びる。一方で、街で本人の依頼で描くときは、描かれる人が喜ぶように描いた方がいい。描かれる人が鑑賞する人であり、お金を払う人だからだ。
似顔絵は、エンターテインメントでありアートである。僕の立場からは、顔学のまさに中核だ。似顔絵を通じて、顔が似るとは何かを考察することによって、顔の本質が見えてくる。そこから人間そのものが見えてくる。奥が深い。