ほころび 2014.05.18-05.24

それなりに長く生きていると、誰でも人生に「ほころび」がでてくる。僕もそれが目立ってきている。でも僕は、ほころびが嫌いではない。むしろ愛着を持っている。何事も完璧すぎるのはよくない。ほころびがあるほうがいい。それを前提に生きた方がいい。

ほころびは、それ以外の部分がしっかりしていることが前提だ。たとえば衣服の縫い目は、すべてがほどけていたらほころびとは言わない。ほころびは必要ならすぐ繕うことができる。広がらないように気をつけてさえいれば、そのままにしておいても、とりあえずは何とかなる。

平安時代の公家の邸宅の間仕切りに使われた几帳は、そのかたびらの中ほどから下を、わざと縫い合わさないままにしてある。それをほころびと言うらしい。ほんのちょっと開けてあるところがいい。そこから垣間見る。それによって恋が生まれたりする。

思わず顔がほころびるという言い方がある。それまでの緊張状態が解けて、隠れていたものが顔を出す。まじめ臭い顔をしている人も、思わず笑顔がほころびる。その瞬間がいい。人はほころびがあると安心できる。自分と同じだという気持ちになる。長くつきあえそうな気がする。

顔はほころびがあるから面白い。すべてが完璧な美人は、遠くから眺める対象としてはいいかも知れないけれども、とっつきにくい。一方で、ほころびだらけでは顔の品がなくなる。ちょっとだけほころびがある美人、そのくらいがちょうどいい。

組織も、どこかにほころびがあった方がいい。完璧な組織は硬直化する。完璧主義者は、組織に少しでもほころびがあると、そこから組織が崩壊することを恐れる。いつも戦々恐々としている。そこからは新しいことは生まれない。組織の未来はほころびをどう設計するかにかかっている。

春になって梅の蕾がちょっとだけ開く。それを梅がほころびるという。ほころびは、厳しい冬から解放されて春が来たことを告げる、そのサインなのだ。みなそれを待ち望んでいる。その意味ではほころびは希望なのだ。そこから未来が切り開かれるのだ。