点は知識であり、線はその関係を与える。それでは面は一体何なのだろう。面は二次元的な広がりである。知識を点として面に布置することにより、知識の間に距離が定義され、それらを線で囲むことにより領域が生まれる。知識が構造化される。
全体像の把握には面がいい。知識を面に並べることにより全体を俯瞰することができる。それは眺めているだけで楽しい。さまざまな発見がある。そこには、まだ誰も気づいていない真理が隠されているかもしれない。宝探しの面白さがそこにある。
学校の講義での一学期分の内容は、実際は多次元的な知識体系となっている。ところが毎回の講義は一次元的な時間軸に沿って進む。その時間軸から元の多次元空間をいかに想像させるか。それができたときに、その講義は名講義と呼ばれる。
街を道路に沿って歩くときの軌跡は一次元的な線だ。一方で、その街を空から俯瞰した地図は二次元的な面となっている。知らない街を歩く時に、一次元的な道案内の方がわかりやすいか、それとも二次元的な地図がわかりやすいか。人それぞれだろうけれども、僕は後者だ。
僕のノートには罫線がない。むしろスケッチブックを愛用している。新たなことを勉強するとき、二次元的なマップを作ることから始めるからだ。それぞれの知識がマップに布置されて相互関係が分かったときに、初めて分かった気になる。箇条書きの形で並べても、それは単なる羅列に過ぎない。
人は、一次元的な時間軸を持った線に沿って思考する。なぜだろう。おそらくそれは言語と関係があるのだろう。言語は一次元だ。人類は言語を手に入れることにより、思考できるようになった。文系の研究者が文という言語にこだわるのも、そう考えれば納得できる。
二次元的な面で表現された知識のマップは、それだけではメッセージを持たない。メッセージは、むしろ線の方が表現しやすい。二次元の面に一次元の線を一筆書きとして挿入する。強い意志を持って、その一筆書きをマップ上に描けば、知識はメッセージとなる。