クラス会 2014.06.29-07.05

卒業50年を記念した高校のクラス会があった。中高の一貫校であったので、6年間人生のもっとも多感な時期を一緒に過ごした仲間だ。50年間それぞれ違った道を歩んできたけれども、卒業がついこの間であるような、そのような気持ちになったー日であった。

卒業50年のクラス会、それこそ50年ぶりの友もいた。受付で会ったときは見覚えのない顔が、話しているうちにみるみる変わっていく。50年前と全く変わっていない顔が目の前に現れる。自分自身の顔も昔に戻っていく。それがクラス会なのだ。だから楽しいのだ。

卒業50年のクラス会、ほとんどの友は、すでに第二の人生に入っている。浮世のしがらみはなくなって、自分自身のために生きている。それもあるのだろうか、みないい顔をしている。違う人生を歩んできたはずなのに、いい顔であることだけは共通している。それが何よりも嬉しかった。

卒業50年のクラス会、これが10年前だったら、いわゆる出世組とそうでない組があったかもしれない。運転手づきの車で乗りつけた友もいたかもしれない。でも今は違う。引退したら出世も名誉も関係なくなっている。50年前に戻っている。みな同じ仲間になっている。

卒業50年のクラス会、自分の店を持ってまだまだ現役で頑張っている友もいれば、もっぱら趣味を楽しんでいる友もいる。ボランティア活動をしている友もいれば、家族の介護を大切にしている友もいる。第二の人生に、こうでなければいけないということはない。人それぞれでいい。

卒業50年のクラス会、そこに出られる友は、それなりにいい人生を送ったということなのかもしれない。もしそうでなくて欠席した友がいたら、来年はぜひ出席してほしい。生きているだけで幸せ、もうそういう年代になったのだから、皆で楽しくやろうではないか。

卒業50年のクラス会、最近はクラス会を開くたびに訃報が届く。冥福を祈る。これからますます増えるだろう。クラス会はサバイバルゲームだ。来年は会えないかもしれない。そもそも僕がいないかもしれない。寂しいけれども、僕の年代はそれを前提に生きようとしている。