無責任の勧め 2014.07.27-08.02

このつぶやきでの発言にどこまで責任を持つべきかいつも迷う。嘘はいけない。人を傷つけるような発言はいけない。一方で、全てに責任を要求されたら何も発言できない。ある程度無責任がいいのかもしれない。ということで「無責任の勧め」を無責任につぶやく。

新たな挑戦をするときは、その結果がどうなるか深く考えることはやめよう。結果に対して無責任になろう。結果がわからないから挑戦なのだ。将棋で一手も指さない、あるいは囲碁で一手も打たないうちに長考して投了する。考え過ぎると、それに近いことをすることになる。

会議で新たな提案を求めるとき、発言した人に責任を負わせると、誰も自由な提案をしなくなる。そのときは、提案と実行は分けた方がいい。そして提案する人には、徹底的に無責任になってもらった方がいい。提案をどう実行するかは、実行するときに改めて考えた方がいい。

かつてマスコミの無責任さに驚いたことがあった。何も自らはできないのに、批判ばかりして反省しない。でも、改めて考えてみると、マスコミは無責任でいいのかもしれない。無責任でいいから自由に批判ができる。批判がなくなったら権力はますます腐敗する。

老人は、その発言や行動が若い人を困らせなければ、無責任が許される。むしろ無責任は老人の特権だ。責任をとらなければならなくなったとき「死んでお詫びをします。少しだけお待ちください」と言い切ってしまえばいい。どのくらい待ってもらうかは別として。

それが責任あるいは義務であると言われると、人はやりたくなくなる。逆に真面目にそれに応えようとする人には、ストレスになる。責任ばかりを強調する社会は失敗を許さなくなり、社会を硬直化させる。ある程度の無責任さをどこまで許容出来るか、それは社会の余裕を測るバロメーターでもある。

もうどうしょうもなくなって、人生が八方塞がりになったときは、責任転嫁をしてしまおう。他人に転嫁するのではない。神様仏様にするのだ。きちんとした神様仏様だったら、きっと責任を負ってくれる。責任を肩代わりして貰えば、無責任になって、もう一度やり直すことができる。