ひと 2014.08.10-08.16

いま我々は「ひと」として生きている。それは何者であるか? ひとはこの問いに悩まされてきた。それが宗教や哲学を生んできた。悩むこと、それがサルとの一番の違いかもしれない。ひとには「ヒト、人、人間」とさまざまな表記があり、それぞれ微妙に意味が違う。

ひとをカタカナで「ヒト」と記すとき、ひとを動物とみなしている。そのような見方はダーウィン以降で、当時はひとへの冒涜とされた。けれども、ひとをヒトと記すことにより、それは生命が誕生して以来の38億年の歴史を持つ存在となる。それはそれで素晴らしいことだと僕は思う。

ひとは漢字で「人」と記される。それは人と人が支え合う姿だとされる。示唆的な説だけれども、正確には、人が一人で直立している姿を横から見た形らしい。左側の線が人の腕、右側が体で、もともと腕は上にあがっていた。それがなぜか再び腕が地について四足になった。これもまた示唆的である。

ひとは「人間」と記されることもある。人と人間は何が違うのか。人間はもともとは世の中を指し、それが人という意味になったのは江戸時代以降らしい。「人間万事塞翁が馬」における人間は世の中だ。ひとを人間と呼ぶとき、それが世の中あっての存在であることを意味する。

ひとは英語では“human being” と訳されることが多い。直訳すれば「人として存在すること」だろうか。勝手な印象だけれども、そこにはひとは、animal beingではなくhuman being、それも個人として尊重されるべきだという、近代の西洋思想が見え隠れする。

ひとは英語で“person”とも訳される。それはラテン語のpersona(ペルソナ)に由来し、仮面を意味する。演劇の登場人物に与えられた役柄を指すこともある。ひとにはそれぞれ個性的な人格がある。personという呼び方にはそのような哲学的な意味が込められている。

ヒト、人、人間、human being、person、他にも呼び方があろう。昔はひと全体をmanで代表させていた。人類学ではHomo属だ。それぞれには示唆的な意味がある。ひとをどのような存在として見るか、簡単には定義できない。それが「ひとがひとたる所以」なのだ。