ヒトは直立歩行によって、速くはないけれども長距離を移動することができるようになった。それによって旅をするようになった。ホモ・サピエンスは、アフリカを飛び出し、アジアを経てベーリング海峡を渡り、南アメリカの南端まで旅してしまった。
僕は現役時代、何度も出張したけれども、それは旅ではなかったような気がする。なぜなのだろう。仕事での出張だった。自費ではなかった。旅は自分自身のためのまったくの個人的な営みなのだ。むしろ人生の営みなのだ。その意味では、これから旅の本番が始まる。
気軽に安く旅するにはパック旅行もいい。でも、旅行案内に記されていることを確認するだけでは旅とは言えない。旅にはカメラがつきものだけれども、いつもカメラのレンズを通しての観光では、せっかくの旅が寂しい。自分自身のすべての感覚を駆使してその土地に浸る。それが旅なのだ。
もともと旅は、宗教の救いと密接に関係していた。巡礼はその一つである。現代においても、旅は癒しであり、自分自身を見つめ直す時間である。自分探しを目的として旅する人もいる。いま自分を見失いがちな時代だからこそ、旅はますます人にとってなくてはならない営みとなる。
かつて「どこでもドア」での空間の移動は旅ではないとつぶやいたことがある。旅は時間をかけて日常から離れることだ。非日常の空間と時間に身を投ずることだ。旅は距離ではない。遠い場所にでかけることが叶わなくても、心はいつでも旅をできる。
旅が日常から離れることとすれば、いまの時代に一番大切なことは、ネットから離れることかもしれない。旅をしても、いつもメールが気になり、さらには世の中の動向が気になるようでは、それは旅とはいえない。ネットが発達し過ぎてしまった今、現代人は旅ができなくなっている。
※これから来週水曜日まで、縁があって誘われて、南国に行きます。非日常空間を彷徨います。原則としてネットからの発信は致しません。このつぶやきも、明日の分を一日早くつぶやいて、お休みします。ご了承ください。
古代のインドでは、人生の最後の時期は「遊行期」と呼ばれた。この世におけるあらゆる執着を捨てて旅に出る。旅はそれで終わるのかもしれないし、あるいはそこから新たな旅が始まるのかもしれない。いずれにせよ人生そのものが旅であることは間違いない。