近代の欲望 2014.08.31-09.06 

いわゆる物質文明がいつ始まったかは別として、物質的な富の欲望が正当化されたのは近世も含む近代以降だろう。それまでは、神のみ旨に背く富を追求することは罪であった。それが近代になって欲望は人の自然権として認められ、その欲望を充たすことが近代の価値観となった。

近代社会は、人が欲望を追求する存在であることを前提として作られている。資本主義経済はその典型だ。市民革命によって生まれた民主主義は、市民の欲望の追求を保証する制度、功利主義などの近代思想は、それを哲学的に正当化したものであると言える。

いまの社会では、他人に迷惑をかけなければ、個人の欲望に基づく行動は認められている。しかし、何をもって迷惑とするかは難しい。例えば欲望に基づく経済行為が、結果として新たな貧困を生み、さらには地球環境を破壊することになれば、それは多大な迷惑をかけることになる。

欲望はとどまることを知らない。欲望には行き過ぎがある。自然界では、その行き過ぎを抑制する機構が進化の過程で用意された。しかし、ここ数百年の間に巨大化した近代の欲望には、それがない。抑制の機構がない欲望は取り返しのつかない結末を生む危険がある。

産業革命を経て独占資本主義、帝国主義へと続いた近代の欲望は、結果として二度の世界大戦によってひとまず抑制された。しかしそれは悲惨な犠牲をともなった。いま、近代の欲望は別の形で世界規模で展開されている。その行き過ぎを抑制する機構は、きちんと準備されているのだろうか。

わずかな歴史しかない科学技術には、その欲望の行き過ぎを抑制するしくみが、残念ながら内在されていない。科学技術は、知的好奇心という欲望に支えられ、しかも必ず美しい言葉で飾られる。核兵器を生んだ20世紀の物理学がそうであった。21世紀の生命科学や情報科学もそうかもしれない。

近代という時代は、欲望をエネルギーとして発展してきた。その恩恵をいま受けている。それはきちんと評価しなければならない。しかしその欲望が人類自らを滅ぼすのではないか。そのような時代になりつつあるのではないか。最近それが気になっている。杞憂であればいいのだけれども。