自分との対話 2014.09.14-09.20 

法律上の高齢者になった誕生日にこのつぶやきを始めてから、すでに4年が経過した。原則毎日一回のつぶやきは「自分との対話」のメディアだ。ほんの140字だけの対話だけれども、毎日続けられたことが嬉しい。そのようなメディアに出会ったことが嬉しい。

アリストテレスは、人の生き方を享楽的生活、政治的生活、観想的生活に分けて、第三の観想的生活を理想とした。正直、仙人にでもならなければそのような生活は無理だと思うけれども、せめて1日30分だけでも、自分と向き合って対話する時間を持ちたい。

僕にはその習慣がないけれども、日記は自分との対話のメディアだ。毎日の生活を記録して、そこにちょっとコメントするだけで、日記を通じて自分と対話できる。対話は文字の形で記すことが重要なのだ。他人に読んでもらうためでなく、自分のために日記に記すのだ。

この歳になってようやく「自分との対話」の時間が増えた。いわゆる思春期と呼ばれる青年期のほとんどの時間、僕は自分と対話していた。自分が生きる意味を真剣に考えていた。社会に出てそれをいつの間にか忘れていた。その時間もなかった。再び僕はいま思春期になっている。

言葉はどのようにして生まれたのだろう。言葉は他人とコミュニケーションするメディアとして位置づけられることが多いけれども、自分と対話するために生まれたとする説も有力らしい。確かに、思考も含めて、他人と対話する時間よりも自分と対話する時間の方がはるかに長い。

ネットの時代、現代人はコミュニケーションに忙しくなった。ビジネスマンだけでなく、女子中高生は、日に何時間もLINEでのチャットに時間を費やしているとも聞く。そのような時代に、現代人は肝心な「自分との対話」の時間を失っているのではないかと気になる。

「自分との対話」は、ともすると深みにはまってしまうことがある。暗く絶望的になってしまうこともある。できれば自分とは楽しく対話したい。時には自分を褒めてあげたい。自分こそ、一生つきあっていかなければならない、かけがえのない親友なのだから。