何もしたくない日 2014.10.12-10.18

長い人生、何もしたくない日がある。特に建設的なことはやる気が起こらない。そのようなときは、まずは思い切って休む。休むことを体が要求していると思って休む。それが一番だけれども、そうはいかないこともある。そのときはどうすればいいのか。

疲れてもうこれ以上歩きたくないときはどうするか。目的地へ着くことは忘れて、まずは右足を出し、次に左足を出す。これを無心に繰り返せば目的地の方が近づいてくる。それを信ずる。人生も同じだ。何もしたくない日は、先のことは忘れて、とりあえず足を出すことだけを考える。

何もしたくない日は、特に建設的なことを何もしたくないときは、自分の部屋の片付けをする。溜っている録画を一つずつ見ては消していく。前へ進むことはせずに、後ろをきれいにする。後ろがすっきりすれば、前へ進もうという気持ちにもなってくる。

何もしたくない日は、短時間で終わる単純なゲームを繰り返す。僕の場合はたとえば二角取りだ。時には1時間以上続けるときがあるけれど、そのうちに飽きる。飽きないでも疲れる。馬鹿馬鹿しくなる。そうなったら、少しは何かをやろうという気になってくる。

何もしたくない日はどうするか。酒を飲む。美味を嗜む。趣味を愉しむ。ネットを覗く。それぞれのやり方があっていい。ただ気をつけた方がいい。麻薬のように、そこから抜けられなくなると危険だ。はまってしまったら簡単には脱出できない。ますます事態は悪化する。

今日のうちにすべきことがあるのに、それをしたくない日は、何か他のことを無性にしたくなる。そこに逃避することは危険だ。でも、逃避したところに宝が隠されていることがある。それも大切にしたい。人には勧められないけれど、僕の人生は逃避が切り拓いてきたとも言える。

何もしたくない日は、何もしなくていいと居直る。そのうちにやる気がでてくるだろうと気楽に考える。若いときはこれができなかったけれども、老人は居直る権利が与えられている。せっかく老人になったのだから、それを行使しなければ損だ。最近、そう思い始めている。