書くということ 2014.12.14-12.20

あまり公にしたことはないけれども、僕は10歳の頃まで、書道(習字)を習っていた。展覧会も絵よりも書で入選していた。それが大学時代に、鉄筆でガリ版を切る日が続いて、僕の書体は完全におかしくなってしまった。でもいまでも、書くということにはこだわりがある。

書は、まず正座して墨を磨るところから始まる。ひたすら磨ることによって、精神の統一を図る。それだけでかなりの時間がかかる。ところが学校での習字の時間は、50分で提出が求められる。しかも正座ではなく椅子に座って書く。僕にとって、それはあくまで習字であって書とは無関係だった。

書くときは手を動かす。指に力を入れる。書くは身体運動だ。身体運動だから書き順が問題になる。とめ・はね・はらいも重視される。例えば、右と左のナは書き順が違う。ノのはらい方も違う。それぞれのナは右手と左手を表しているからだ。

人の思考には、身体運動が欠かせない。珠算の達人が暗算をするときは指を動かす。計算という営みが身体運動になっているからだ。書くも同じだ。ワープロの時代に、いまでも400字詰め原稿用紙の手書きを続けている作家がいる。万年筆にこだわる作家もいる。わかるような気がする。

僕は出かけるときは、スケッチブックを持ち歩く。スケッチのためではない。書かれるのはほとんどが文字だ。僕はスケッチブックに、文字を手書きすることによって、ものを考える。思考のメディアとして、タブレットはまだスケッチブックに追いついていない。

僕は大学で基礎科目を教えるときは、黒板に板書きをして、学生にそれをノートにとらせた。最近は黒板をスマホで撮影して、その写真をノート代わりにする学生がいるけれども、それでは学んだことにならない。実際に手を動かして書くことが重要なのだ。書くことによって初めて内容が理解できる。

デジタルの時代になって、手書きは少なくなり、原稿書きもメールのやり取りもキーボード入力になった。書くときの身体運動は、指先だけになった。自動変換で、そもそも字を書けなくてもよくなった。そのとき、人の書くという営みはどうなるのだろうか。文化はどう変わるのだろうか。