読むということ 2014.12.21-12.27 

僕が小学校のとき、国語の時間は、教科書を大きな声を出して読むことが中心であった。僕は苦手だったけれども、いま思えば、それはまさに国語の基本だったのだ。目だけで文字を追っても、読んだことにならない。国語力を身につけるには、声を出すことが重要だったのだ。

声を出して読むときは、声帯を震わす。口も動かす。その声を自分の耳で聞いて確かめる。書くときは手を動かす。書いた字を自分の目で見て確かめる。読むことも書くことも、もともとは五感を駆使する身体運動である。それは僕の持論だ。

仏教で僧侶が読経をするときも、読むだけでなく声をだす。読経は宗教的行事になっているけれども、参列している人に説法を説くという意味もある。文字を読める人が限られていて、読むことは聞かせることでもあったのだろう。声をだすことによって、自分に言い聞かせることもできる。

もったいぶった専門書で、難解な文章に出会うことがある。そのようなときは声を出して読んでみることをお勧めする。黙読ではまったく理解できない文章も、音読するとそれなりにわかることがある。逆にもともと論旨が通っていなかったことが露呈する。そういう文章もあるけれども。

読むということは、単に字面を追うことではない。その意味・内容も含めて理解することだ。そこからメッセージを引き出すことだ。行間を読むという読み方もある。そこには目に見える文字はないけれども、重要なメッセージが隠されている。

サバを読むという言い方もある。自分に都合がいいように数をごまかすことだ。一説には、サバは大量に漁れて傷みやすく、素早く大雑把に数えたところに、その語源があるらしい。読むには数えるという意味もある。古事記、万葉集の頃から、そのような意味の使い方があるようだ。

読むには、未来を予測するという意味もある。例えば、ファッション業界では、次のシーズンの流行を読むことが必要になる。将棋や囲碁で手を読むのも、論理的に未来の指し手を予測することだ。いまの時代、まさに「未来を読む力」が求められている。