輪切り 2015.01.04-01.10

最近「輪切り」が気になっている。料理で大根を輪切りにすることではない。人の輪切りが、いま起きているように思うからだ。輪切りとは、ある特定の基準で、人が似たような集団に分別されることを言う。なぜ輪切りにするのだろうか。なぜ輪切りになるのだろうか。

例えば紅白歌合戦、かつては家族全員が歌手の名前を知っていた。いまは違う。ある世代で有名でも、他の世代ではそうではない。世代による文化の輪切りが起きているからだ。もはやそれは家族の団欒の時間ではなくなった。そもそも、年末年始を家族一緒に祝うことも少なくなった。

いま輪切りが問題になっているのは学校教育だろう。学校では、生徒を偏差値で輪切りして進路指導がおこなわれ、そのとき偏差値以外の本人の適性や興味は無視されやすい。たまたま学力があると、本人に関心がなくても偏差値が高い大学の学部への受験が勧められ、次第に本人もその気になる。

なぜ輪切りになるのか。それは効率がいいからだ。できるだけ同質なものを集めたほうが、効率よく扱うことができる。学校教育でも、成績で輪切りしたクラス編成にすれば、学力がほぼ同じだから教えやすい。教育に効率を求めると、自然に輪切り現象が起こる。

なぜ輪切りになるのか。それは安全だからだ。偏差値で生徒を輪切りにして進路指導すれば合格率が高くなる。進路指導だけでない。教育におけるほとんどの輪切りは、その生徒のために良かれと思ってのことなのだ。問題はそう簡単ではない。

なぜ輪切りになるのか。輪切りにされる方からすれば、それは快適なことでもあるからだ。そこでは異質なものとの間の葛藤がなくなる。葛藤がない世界は、それなりに心地よい。そのような環境で育つと、異質なものへの抵抗力がつかない。輪切り化された世代は。社会に出ても逃げるだけになる。

いまの社会のしくみは、人々が輪切りになることを加速し、奨励しているようにも見える。たとえばネットは、同じ世代、同じ趣味、同じ思想を持つ人だけが群れやすいようにできている。そこでは異質なものは排除される。その結果、人は輪切りのなかで安住するようになり、文化もまた輪切りにされる。

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