「真面目」な議論 2015.01.11-01.17

何か問題が起こると、それが再発しないように「真面目」な議論がおこなわれる。それが往々にしておかしな方向に行く。そこには悪魔が潜んでいて、その方向へ誘導しているかのようでもある。「真面目」な議論をすればするほど、なぜおかしくなるのか。

「真面目」な議論が、なぜおかしな方向に行くのか。それは、一つには長期的な視野を持たずに、目の前の差し迫った問題だけを解決しようとするからだ。とりあえずの危機管理は大切だけれども、長期的な視野を忘れてそれを繰り返していると、結局は自分の首を絞めることになる。

「真面目」な議論をすると、なぜか規制を強化する方向になる。規制を強化すれば確かに問題は起こりにくいであろう。しかし安易な規制によって、それ以上に失うものがあることを、肝に銘じておかなければならない。

自分の意見を言わずに、もっぱら「社会はそれを許さない」ことを主張する「真面目」な議論には気をつけたほうがいい。責任転嫁がそこでなされているからだ。特にその議論が管理者の視点でされると、管理者と現場の信頼関係が失われる。組織がおかしくなる。

いわゆる「真面目」な議論で気になるのは、それが自己保身を目的とした議論のように思えるときだ。おそらく発言する人はそれに気づいていない。自己保身を目的とした議論は何も生まない。本質とは逆の議論になるから、その結論もおかしなものになる。

世の中に完璧などある筈がないのに、「真面目」な議論は完璧を期そうとする。一方で完璧を狙うと、他方で何もできなくなる。例えば研究の不正を完璧に防ぐには、極端に言えば元を絶てばいい。研究させなければいい。少なくとも研究意欲を低下させればいい。

マスコミも政治も、いわゆる「真面目」な議論ばかりをして、この国がどうなるのか気になる。もしかしたら、それは宿命なのかもしれない。それによっておかしくなったときに、また「真面目」に議論すればいいのかもしれない。そのときすでに取り返しがつかないことになっている可能性が高いけれども。