世代 2015.01.25-01.31 

かつて「新人類」という呼び方があった。1986年の新語・流行語大賞にも選出されている。1980年代半ばに入社してきた当時の新入社員を、当時の管理職がそう呼んだらしい。その新人類はいま40代から50代の管理職になっている。いまの新入社員は、また世代が変わっている。

僕は終戦の年に生まれた。戦争を知らない「戦後世代」の最初だ。僕の前には「焼け跡世代」「学徒疎開世代」そして「戦前世代」がある。一方で、僕の直後に「団塊の世代」がある。戦前と戦後の切り替えの時期を僕は生きてきた。その意味でどちらの気持ちもわかるし、どちらもわからない。

「団塊世代」は、学生時代は「全共闘世代」とも呼ばれた。その後の世代が「しらけ世代」である。そして、全共闘ともしらけにも関係しない「新人類」、引き続いて「バブル世代」「氷河期世代」の時代となった。わずかの間に目まぐるしく世代が変わった。それが戦後だった。

「ゆとり世代」もあった。いわゆるゆとり教育を受けてきた世代が、自分たちに学力がないことを時代の教育のせいにして、自嘲気味にそう呼ぶこともある。でも、その世代特有の良さもあるはずだ。自嘲するのではなく、もっと前向きに考えて、未来へつなげてほしいと思う。

「最近の若者は」と嘆く言い方は古代エジプトにもあり、かのプラトンの著作にもあったという話がある。それぞれ本当かは別として、昔からあってもおかしくはない。若者がその前の世代と同じであったら進化はない。人が進化し続ける限り、いつの時代も「最近の若者は」があって当然なのだ。

世代の「世」はもともと三十を意味しているとの説がある。確かに親と子の年齢差は、平均すると30歳位となる。その世代がいま細分化されている。でも、同じ年齢層を十把一絡げに「○○世代」とすることには抵抗がある。それぞれの世代にも多様な人たちがいる。

いま世代を超えたコミュニケーションが難しくなっている。親子だけではない。10歳違うと世代が変わり、話が通じにくくなっている。ネットがそれを加速しているのかもしれない。文化の伝承という意味からも、水平だけでない垂直のコミュニケーションをいかにデザインするかが問われている。