僕は「ごめんなさい」とすぐ謝る癖があるらしい。「あなたはすぐごめんなさいと言うからいけない」と叱られる。そういわれると、すぐ反射的に「ごめんなさい」と謝る。それがまた、相手を怒らせる。そしてまた「ごめんなさい」と謝る。それを繰り返すことになる。
若い時、アメリカでは決して先に「アイムソーリー」と言わないようにと忠告された。自分の立場が悪くなるからだ。一方で日本では、まず「ごめんなさい」と言わないと、自分の立場が悪くなるらしい。僕にはどちらも違和感がある。謝ることと自分の立場を気にすることは無関係だと思うからだ。
親が子に対して叱るときの常套句に「ごめんなさいは?」がある。子の言い分を無視して、まずは謝ることを強要する。子は納得しないまま「ごめんなさい」と形だけ謝る。いつも「ごめんなさい」と怯える子に育ってしまう可能性もある。「ごめんなさいは?」は、本当に教育的な叱り方なのだろうか。
企業で不祥事があったときの記者会見で、役員が記者の前で深々と頭を下げる。あれは誰に対して頭を下げているのだろう。頭を下げる側、下げられる側、双方に何か勘違いがあるように思えてならない。それともそれは単なる社会の儀式になっているのだろうか。
何か問題が起きると、当事者にまずは謝らせる。謝らなければ納得しない。そのような社会的事件が増えてきたような気がする。社会に余裕がなくなっているからなのだろうか。謝らせることによって、社会は自分の鬱憤を晴らしているのだろうか。
「ごめんなさい」は自ら言う言葉であって、相手に言わせるものではないと僕は思う。「ごめんなさい」と思う心は大切にしたい。でも、それを相手に強要したときに、その大切な心がおかしくなってしまう。「ごめんなさい」の本来の意味が失われてしまう。
「ごめんなさい」は難しい言葉だ。ごめんなさいで済めば警察は要らないと、かえって相手を怒らせてしまう。安易に責任逃れをしているように聞こえるからだろうか。どうしたら、そう聞こえないように「ごめんなさい」を言えるのだろうか。そう思いつつ、今日も「ごめんなさい」を繰り返す。