認知症 2015.04.12-04.18 

少し前になるけれども、「認知症」をテーマにしたシンポジウムのパネリストになった。僕は医者ではないので、もっぱら認知症の予備軍として発言した。もはや予備軍ではないと思った聴衆もいただろうが、僕にとって身につまされるシンポジウムであった。

この歳になると物忘れが多くなる。僕も認知症になったかと思う。でも、単なる加齢による物忘れは、認知症によるものとは違う。加齢によるものは本人の自覚があるが、認知症ではそれがない。何かあっても他人のせいにする。単なる物忘れで本人が悩んでいるうちは、まだ本当の認知症ではない。

認知症は、脳の病気だと思われているけれども、むしろ適度に身体を動かすことが予防になる。寝たきりになると急に進行する。そのためにまず老人が気をつけなくてはいけないことは、転ばないことだ。不幸にして転んでしまったらリハビリに励み、たとえ車椅子になっても運動を続けることが大切だ。

認知症は、65歳以上の高齢者で7人に1人、その前段階も含めると4人に1人と言われている。年齢を重ねるほどその割合は高まる。その意味では誰もがなる可能性がある。予防は大切だけれども、認知症になることを覚悟して、それを前提に生きることも必要となる。

認知症には、一人称、二人称、そして三人称の課題がある。それぞれ自分自身、家族、そして社会の課題だ。僕はそのうち二人称が特に気になる。もし僕が認知症になったら、おそらく僕自身は困らない。ストレスは自分ではなく、身近な家族に大きくのしかかる。

認知症を自分の問題として考えるとき、自分では自覚せずに自分の人格が変わってしまうことが怖い。認知症でなくても、脳障害でそのような後遺症が残ることある。その自分にいま果たして責任を持てるだろうか。おそらく持てないだろう。だから怖い。

家族にはあらかじめこう言っておこう。もし僕が認知症になって人格が変わった時、その人はもはや僕とは思わないでくれ。親だと思わないでくれ。昔はこうだったのにと悩まないでくれ。何を言っても、まったく別の人格の赤の他人と思って、そう扱ってくれ。その方が僕としては、はるかに気が楽だ。