親孝行 2015.04.26-05.02

孝行したいときに親はなし、墓に布団は着せられず。僕は、親の前ではずっと反抗期であった。反抗をしないでもっと親孝行をしておけばと、今では悔やんでいる。もう遅い。でも、後悔しても始まらない。今からでも前向きに親孝行を考えてみよう。

親孝行って何だろう。親の世話をすることだろうか。要介護になったらそれもあるだろうが、親にとって何よりも嬉しいのは、子が幸せに生きていることだ。「この世に誕生させてくれてありがとう」 子にそう言ってもらえることだ。それが、最高の親孝行なのだ。

老人は、安心すると急に老け込んでしまう。最高の親孝行は親不孝をすることだと聞いたことがある。子がこんなことでは、まだまだ死ねない。親にそう思わせておいた方が、親は元気で長生きする。そういうことらしい。親の立場からは何とも言えないけれど。

子を持つ親として覚悟しておかねばならないことがある。子は3歳までにすべての親孝行を済ませてしまう。後はひたすら親が子に孝行する番だ。親の役割は子が自立して大人になることを助けることだ。親孝行してもらうために育てるのではない。

人生は駅伝のようなものだ。親からバトンタッチされた人生は、そのバトンを親に戻すことはできない。一生懸命走って、次の世代に渡すしかない。生物的な遺伝子だけでなく、文化の遺伝子と呼ばれるミームも大切なバトンだ。そのバトンを、確実に次の世代に渡す。それが親孝行になる。

いま親の介護が、子の世代に重くのしかかっている。それは最後にできる直接の親孝行かもしれない。財政難の国は、介護の負担を家族に負わせようとする。でも僕は親孝行の名のもとに、子に介護を強いることは好きになれない。介護と親孝行は独立して考えたほうがいい。無理に一緒にしない方がいい。

親にとって何よりも悲しいことは、親よりも早く子が死ぬことだ。子ができる最低限の親孝行は、親よりも先に死なないことなのだ。戦争は、若者たちにその親孝行を捨てることを強いる。日本を親孝行の国にしたければ、そのような歴史を決して繰り返してはならない。