忘れるということ 2015.05.17-05.23

小学校のとき宿題を忘れて、先生に叱られた。大人になっても同じだ。何事によらず約束を忘れると、信用を失う。世の中では、忘れることは悪いこととされるけれども、必ずしもそうでもなさそうだ。最近そう思うようになった。

「忘却とは忘れ去ることなり」。若い人には何のことかわからないかもしれないけれども、ある年齢以上には懐かしい言葉だ。「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」と続く。忘れなければいけないのに、忘れられないことが、人生にはままある。

歳をとると忘れやすくなる。ボケに関連した有名なジョーク。用を足した後にジッパーを上げるのを忘れているうちは、まだいい。用を足す前にジッパーを下げるのを忘れるようになったら、ボケは深刻である。忘れていることも忘れるようになったら、認知症を疑ったほうがいい。

人に貸した金はよく覚えているけれども、借りた金は決まって忘れる人がいる。もちろんその逆の律儀な人もいる。僕はどちらもすぐ忘れてしまう。どうしたらいいのだろうか。とりあえず、人から借りたときは「覚えていてね」と相手に言っておく。相手に失礼だと思いながら。

ビジネスマンは約束を忘れたら大変なことになる。一方で、政治家にとって不可欠なのは忘れる能力だと聞いたことがある。過去の言動が都合悪くなったら、忘れてしまえばいい。少なくとも忘れた振りをすればいい。そうしなければ政治家は生き残れない。忘れるということも、職業によって様々だ。

「覚えていて悲しんでいるよりも、忘れて微笑んでいるほうがいい」 これはイギリスの詩人、クリスティナ・ロセッティの名言である。人は忘れることにより前向きに生きられる。すべてを忘れなかったら、人は生きていけない。忘れることは生きる力として大切なのだ。

近い将来にコンピュータが人の脳に組み込まれる時代が来るかもしれない。そのとき人は、無限と言っていい記憶容量を持つようになる。過去の記憶をすべて忘れないようになる。それはいいことなのだろうか。ぜひそこには忘れる機能をつけ加えてほしい。研究分野として忘却工学があってもいい。