謙虚 2015.05.24-05.30

謙虚さは美徳とされる。ことさら美徳とされるのは、いつの時代にあっても謙虚であることが難しいからだ。なぜ難しいのだろう。なぜ謙虚が美徳なのだろう。そもそも謙虚な生き方とは、どのような生き方を言うのだろう。どうすればできるのだろう。

「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」これは成功した人ほど謙虚になるという意味だ。しかし、成功したら他人と張り合う必要はない。頭を垂れることは易しい。まだ成功していないときはどうか。実る前に稲穂が垂れてしまったら、枯れてしまうかもしれない。謙虚になることは難しい。

いまの社会は、自分を主張しなければ生きられない。それは悪いことではない。自分のいいところをアピールすることは大切だ。問題があるのは、自分だけが偉いと思って、他人を見下すことだ。そのとき人は傲慢になり、尊大になる。謙虚でなくなる。

競争の時代、謙虚さこそ競争に勝つための武器だと街の自己啓発書に書かれている。でも、僕には強い違和感がある。謙虚が手段になってしまったらそれは謙虚とは言わない。謙虚さとは、決して頭を下げて人の足元を見ることではない。

謙遜と謙虚は違う。謙遜は動詞になるけれども謙虚はならない。謙遜は振る舞いだ。いつも謙遜して何も語らない人を、誰も謙虚とは言わない。自分の意見を持っていないとみなされる。逃げているとみなされる。自分をしっかり持ちながら、奢らずに相手を尊重する。それが謙虚ということだ。

謙虚さとは、自分自身を絶対化せずに、相対化して見つめられることだ。そして、自分が小さな存在だと気づくことだ。謙虚は卑下とは違う。自分を蔑むことではない。小さな自分に気づいて素直に学ぶ心、祈る心、それが謙虚さにつながる。

謙虚さで大切なことは、感謝の心だ。自分一人の力で生きているのではない。多くの人に助けられているからこそ今の自分がある。そう感謝することだ。逆に言えば、感謝の心があれば自然に謙虚になれる。謙虚さは、それを直接目指してもなれるものではない。