謙虚さと科学技術 2015.06.07-06.13

最近考えることがある。「謙虚な科学技術」は、果たしてあり得るだろうかと。なぜそのようなことを考えるのか。それは、科学技術がいま傲慢になっているようにも見えるからだ。時代の行方を決める独裁者のようにも見えるからだ。

科学技術は謙虚であれと言われたときに、ほとんどの研究者は戸惑うであろう。発想が全く逆だからだ。謙虚になったら研究はできない、科学技術の発展はあり得ないと怒り出す人もいるかもしれない。科学技術至上主義に立てば、それは当然だとも言えるからだ。

謙虚な科学技術、それ自体は考えにくいかもしれないけれども、自然に対して謙虚な科学、人や社会・文化に対して謙虚な技術、そのような科学技術があっていい。むしろそうでなければならない。科学技術は傲慢になったときに暴走する。そして人類を滅ぼす。

謙虚さを忘れた近代の科学技術は、自らが神になって自然を征服し、自分に都合いいように改造してきた。さらには、自然には存在せず、しかも自然に還元できない物質を大量に作りだした。放射性物質も含めて、その廃棄が人類の深刻な負の遺産となっている。

科学技術は、生物の遺伝子を直接操作することを可能にした。それは、生命誕生以来の生物進化に対する挑戦であるとも言える。自然淘汰に基づく「自然進化」の時代は終わり、いまや生物を人工的に「計画進化」させる時代となった。謙虚でない科学技術は、それは科学技術の勝利であると嘯く。

いま人工知能は、計算能力や推論能力の一部において人を遥かに超えようとしている。それが遠くない将来に人の脳に組み込まれたら、人はスーパーヒューマンになる。おそらくそれはすでにホモ・サピエンスではなくなっているだろう。それは人類の進化なのだろうか、滅亡なのだろうか。

科学技術の研究者としては、限界まで挑戦してみたい。それが人のため社会のためになるかは別として、もしかしたら人類が不幸になる可能性があっても、限界を追求したい。そう考えるのが研究者魂である。僕もその気持ちがよくわかる。だからこそ怖くなる。謙虚な科学技術の可能性を考えたくなる。