曲学阿世  2015.06.14-06.20

「世間に阿り(おもねり)学問を曲げる」ことを「曲学阿世」という。漢の時代の史記・儒林列伝に「曲学して以って世に阿ること無かれ」とある。大学改革の旋風が吹き荒れている中で、改めてこの言葉の大切さをかみしめる。

「曲学阿世の徒」 昭和25年、時の権力者が日本を代表する大学の総長を、こう呼んで非難した。曲学阿世とは権力に阿ることであって、阿っていれば権力者は喜ぶ。権力者からそう非難されたということは、その総長が曲学阿世の徒ではなかったことを意味する。

かつての日本には、時の権力者から「曲学阿世の徒」と非難された気概のある大学人がいた。今はどうだろう。評価という外からの圧力によって、教育も含めて学の方向を曲げていないだろうか。そうだとすれば、自ら「曲学阿世の徒」になったと言われても仕方がない。大学人の気概が問われている。

バブルがはじけて以降、経済再生と産業競争力の回復の名の下に、大学改革が叫ばれている。経済再生は大切ではある。でも、それを行政が直接大学に責任転嫁して、短期的な視野で「曲学阿世」を大学に求めると、学はおかしくなる。日本の将来も危なくなる。

いま大学にも短期的な市場原理、競争原理が導入されている。でもそれは大学には似合わない。大学の本来の役割は、より長期的なスパンで社会の方向性を示し、それへ向けて卒業生を社会に送り出すことだ。世に阿って学を曲げてでも競争に勝つことが大学の使命ではない。

いまの大学は、外からの圧力で動かされているように見える。数値で序列化する大学ランキングに翻弄され、研究もテーマが設定された外部資金を獲得できるかどうかで決められる。改革の方向も、大学が主体性を失い、「長いものには巻かれろ」になってしまっては、学の将来はない。

「曲学阿世」 いま社会も学もこの方向になっていると断言すると、抵抗を覚える人も多いだろう。行政も含めた社会は、学に曲学を求めていないと言うだろうし、学も自分たちは阿世で動いているのではないと言うだろう。でも本当にそう言い切ることができるのか。もう一度考えてみる価値はありそうだ。

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