最近、人が幸せな気持ちでいるかどうかは、結局は自己暗示なのではないかと思うようになった。幸せを客観的に判断することは難しい。その人が、自分は幸せであると思っていたら、そう信じ込んでいたら、それで十分なのだ。
人生は自己暗示でしかない。だとすれば自分はかっこいいと自己暗示をかけたほうがいい。気持ちがいいし、人生も前向きになる。逆に暗い自己暗示を自分にかけてしまうと、いつも暗い気持ちでいることになる。自己暗示で明るくも暗くもできるのであれば、どうせなら明るく生きたほうが得だ。
自慢話は自己暗示。自分にするのはいいけれども、他人にすると煙たがれる。でも、他人の自慢話は、できるだけ聞いてあげることが大切だ。それによってその人が幸せな気持ちになるのならば、その人のために辛抱強く聞いてあげよう。
自己暗示は現実を見えなくするからよくないとも言われる。でも、幸せの自己暗示だけは別だ。もともと幸せは主観的なものだ。自己暗示で幸せになれる。他人がお前の現実は不幸だと言っても始まらない。そもそもそのようなことを言う権利がない。
自分は駄目だという負の自己暗示は、自分をがんじがらめにしてしまう。その自己暗示をどう解くか。医学的には自己催眠療法というものがあるらしいけれども、チャランポランになることも一つ方法かもしれない。すべてを真面目に考えていては、自分が駄目という結論しか出ない。
自分が駄目なのはすべて周りのせいだと、自己暗示にかかっている人もいる。自分を被害者として、その責任はすべて自分以外の周りにあるとする。でもその自己暗示は逃走でしかない。逃げてばかりいたら、いつまでたっても前へは進めない。幸せにはなれない。
このつぶやきも、僕にとっては自己暗示のツールかもしれない。こうありたいと願うことを、あたかもそうであるかの如くつぶやく。そうすることによってそれが現実になったかのように思う。もちろん、つぶやくことによって自己反省することも、ときどきあるけれども。