教育の現場には試験がある。試験には採点がつきものである。僕は20代後半に教職に就いたから、40年以上にわたって、数限りない答案を採点してきた。様々な基準で採点してきた。試験の採点とは何かを、いつも自問しながら採点してきた。
入試のような特別な試験は別として、講義に伴う通常の試験は、学生を選別することが目的ではない。他の学生は関係なく、その学生の理解度を見て、その後の指導に生かす。そのために試験がある。学生ごとに試験が違ってもいい。採点方法が違ってもいい。
最近では、試験の配点を予め公表することを求められると聞く。僕は公表したことがほとんどない。なぜか。とりあえず配点を決めて採点するけれども、最終的には、学生それぞれの答案と対話しながら、配点を変えてきたからだ。予め公表することができなかったからだ。
あるとき、驚嘆するほど見事な解き方で、ある特定の一つの問題だけを解答した答案があった。その解き方にはその講義で教えたすべてのエッセンスが詰め込まれていた。他の問題は白紙だったけれども、学生が講義をしっかり習得したことは理解できた。僕はその答案をもちろん合格にした。
試験で複数の問題があるときは、それぞれの点を足し算して総合点を出すことが多い。配点を決めて足し算することは、一見公平に見えるけれども、それは絶対ではない。掛け算してもいい。論理式で組み合わせてもいい。それぞれの点は参考にとどめて、それとは別に総合点をつけてもいい。
試験の採点に公平さだけを要求すると、試験そのものがおかしくなる。答案には、形式的な採点には必ずしも反映できない多様な情報が含まれている。それらを総合的に判断して、評価することが望まれる。見かけの評点は低くても、しっかり学んでいると判断できたときは合格にしてもいい。
試験の採点は、教師にとってかなりの重労働である。それはもっと認識されていい。余裕がなくなると教師は答案だけを見て、生徒や学生の顔を見なくなる。試験とその採点は大切だけれども、それだけ見て完璧さを要求すると、教育そのものがおかしくなっていく。