戦争 2015.08.09-08.15

戦後70年。日本は国際紛争を解決する手段として、国権の発動としての戦争と、武力による威嚇と行使を放棄してきた。それによって日本は戦争をしない国となった。一方で、紛争が絶えない国際社会においては、それは責任放棄だとする立場もある。そもそも戦争とは何なのだろうか。

人が戦争を始めたのはいつからだろうか。サルの世界にも集団の縄張り争いがあることを考えると、それは集団生活を営む動物の宿命なのかもしれない。一方で縄張りは、それさえ守っていれば争いをしない仕組みでもある。平和の仕組みは動物にもある。

すべての戦争は「平和」が大義名分となる。大東亜共栄圏を目指した戦争も、ヒットラーの戦争も、ベトナム戦争も、イラク戦争もすべてが「平和」のためであった。その意味では戦争はつねに聖戦である。次の戦争も「平和」の名のもとに起こる。それは心しておかなければならない。

戦争は始めるのは易しいけれども、終えることは難しい。戦争を始めるときは、終え方も準備しておかなければならない。さもないと戦争は悲惨なことになる。相手に勝つことだけが戦争を終えることではない。直接戦争に関係していない庶民も含めて膨大な数の犠牲者がでないと戦争は終わらない。

いまの戦争は一歩誤ると人類そのものを滅亡させてしまう。キューバ危機のとき、当時のケネディ大統領は2分の1から3分の1の確率で核戦争を覚悟したと言われる。もし起きていたら、世界はどうなっていたか。同じことがいつ起きても不思議ではない。

国際紛争を解決する手段として、戦争はもっとも手軽な手段だ。だからこそこれまで戦争が絶えなかった。二度の世界大戦を経験して、人類は平和的に紛争を解決する手段の模索を始めた。でも残念ながら、必ずしもそれは機能していない。戦争は、人の業(ごう)として永遠に続くのであろうか。

ちょうど5年前、僕はこうつぶやいている。「今日は終戦記念日、終戦の年つまり昭和20年に生まれた世代には「平和」なる言葉は特別な意味を持つ」。5年たってもその思いは同じだ。むしろますます強くなる。子どもたちのためにも、孫たちのためにも、同じ過ちを繰り返してはならない。