権力者は自らに反対する人たちを十把一絡げにして、抵抗勢力と呼ぶ。かつて小泉政権が好んで使った。最近思うことが多くなった。抵抗勢力こそ権力が暴走しないための仕組みなのではないかと。先の戦争では、大政翼賛の名のもとに抵抗勢力が封じ込まれ、日本は方向を見誤ってしまった。
戦後、それぞれの時代に権力に対する抵抗勢力があった。例えば、教育では文部省に対して日教組、企業では経営者に対して組合。抵抗勢力があったことにより、権力者は勝手なことができなかった。歴史の評価は難しいけれども、それなりのバランスが保たれていたとも言える。
抵抗勢力の存在が最も意味を持つのは政治の世界だ。与党に対しては野党が、同じ政党内でも、主流派に対して反主流派が抵抗勢力となる。いま野党が勢力を失い、与党も派閥が解体されて、反主流派が見えにくくなった。抵抗勢力が弱くなると政治はおかしくなる。
抵抗には論理が必要とされるけれども、抵抗勢力の主張は、必ずしも論理的ではなく、全体を見ていないように見えることがある。ともすれば無責任にも見える。でも抵抗はそれでもいいのではないかと、ときどき思う。直感的におかしいことはおかしい。それを根拠に抵抗する。それが抵抗なのだ。
抵抗勢力が権力を持つと、抵抗ができなくなって存在意義を失ってしまう。野党が政権を担うと、その政党は弱体化する。社会党そして民主党がそうであった。政党間の政権交代は、一般的には望ましいことだけれども、日本では必ずしもいい結果を生んでいない。
抵抗勢力は、権力の側から見ると、鬱陶しい存在かもしれない。邪魔かもしれない。しかし、抵抗勢力がなければ権力は堕落する。抵抗勢力は、権力にとっても、自らのために大切な存在なのだ。そのことを、権力者は絶対に忘れてはならない。
抵抗勢力があること。それは政治に限らず全てにおいて、その仕組みが健全に機能していることの証なのだ。一方で、いま日本人は従順になった。優等生的になってしまった。学生も含めて、怒る前にあきらめるようになった。その結果として、抵抗勢力が弱体化しているとしたら、日本はこれから危ない。