最後のコミュニケーション 2015.10.04-10.10

人間の脳には、感覚機能と思考機能と表出機能がある。このうちどの機能が失われるのが一番辛いだろうか。それは表出機能かもしれない。表出機能が失われたら 、他人と全くコミュニケーションできない。それは限りなくもどかしいことに違いない。

人のすべての表出機能が失われて、外からの働きかけに何の反応できなくなると、外見的には植物状態になったとみなされてしまう。そうであっても、感覚機能や思考機能は正常で、本人には普通に意識があることもあろう。自らがそのような身になったとき、どうすればいいのだろう。

先の大震災で大きく揺れたとき、長いことほとんど意識がないとされていた病人の額から大量に汗が流れ落ちた。これは本当にあった話である。もしかしたら、本人は早く逃げなければいけない、でも体が動かない、このまま死ぬのだろうかと焦ったのかもしれない。

病人に呼びかけて何の反応がないときも、感覚、特に聴覚は正常である可能性がある。そのような病人のそばで、葬式や遺産相続の話は避けたい。いつ生命維持装置をはずすかという相談も、枕元でしてはいけない。病人にはすべて聞こえているかもしれないからだ。

病人の最後に残るコミュニケーション機能は、瞬きだと聞いたことがある。瞬きによって文字入力できるタブレット用アプリも一部で開発されている。そのような瞬きコミュニケーションが必要になるときもあるだろう。それに備えて元気なうちに練習しておくのもいい。それも家族と一緒がいい。

植物状態とみなされても、脳波などの生体信号では意識があると判断されるケースがあるらしい。そのような場合は、その生体信号でコミュニケーションできないだろうか。せめてYES/NOだけでも自分の意思を伝えることができれば素晴らしい。

外見はほとんど植物人間になったとき、何をしてほしいだろう。友人にグループで見舞いに来てもらって、勝手なよもやま話をしてもらうのもいい。好きな分野の本を、枕元で朗読してもらうのもいい。そのような状態になっても、まだまだ勉強したい。知識を仕入れたい。多分僕はそう思うだろう。