大学の疲弊 2015.10.18-10.24

僕は36年の間、大学の常勤教員として過ごしたけれども、6年半前に定年になった後は少し距離をおくようになった。距離をおくと、いまの大学はかなり疲弊しているように見える。現役の頃から感じていたことだけれども、改めて危機感を持つようになった。

バブルがはじけて日本の産業競争力が低下すると、社会は大学に対してすぐに役に立つ研究を期待するようになった。国もそれへ向けて競争的資金の充実に努めた。大学などの研究機関は「研究請負事業体」として組織整備をおこない、研究は一種の経済活動になった。

大学の教員は超多忙になった。直接の教育研究以外のことに振り回されるようになった。外部評価や各種調査への対応、競争的資金の申請、多様化する入試、数え切れない学内外の会議、研究室の運営、学会活動、そして社会貢献・・・・。目先のことに追われて、立ち止まって考える余裕がなくなった。

大学の専任教員は、若手を中心にさまざまな理由で減らされた。研究は、臨時雇用の任期つき研究者に頼らざるを得なくなった。若手研究者の身分は、高学歴ワーキングプアと呼ばれるほど不安定になった。自らの研究テーマを自由に設定することも難しくなった。

大学の経営に民間企業の論理が持ち込まれるようになった。大学を企業体と考えれば、それもあろう。一方で、目先の経営は、大学の本来の役割を見失わせる。人類の知を担ってきた大学の歴史を終わらせる。そのことに気づいたとき、大学はもう取り返しがつかないことになっているかもしれない。

いま国や経済界が中心になって、経済再生の名目で大学の改革が進められている。この動きを大学の関係者は、良い方向だと本当に思っているのだろうか。誰もがおかしいと思っていながら何も対抗できていないようにも見える。いま大学は、それほどまでに疲弊しているのだろうか。

大学の改革を推進した関係者は、おそらくは「よかれ」と思って進めたに違いない。それが結果として大学の疲弊を招き、教育研究機関としておかしくしたとすれば、何が問題だったのか。対症療法的に改革を上乗せするのではなくて、根本に立ち返って考え直す時期が来ているように思われる。