線人類 2015.11.15-11.21

人はどのようにコミュニケーションしているのだろうか。今から25年以上前に、これを「体人類」「面人類」「線人類」「点人類」に分類したことがある。体・面・線・点という数学の次元をコミュニケーションにあてはめた言葉遊びでしかないけれども、それはそれで僕には面白かった。

「体人類」は、その名の通り、互いに体で触れ合うコミュニケーションを得意とする。哺乳類などの動物のコミュニケーションの基本はこれだ。人も、例えば母親と赤子は、スキンシップコミュニケーションが中心になる。性的なコミュニケーションもこれだ。

「面人類」は、対面のface to faceコミュニケーションだ。人は互いに触れ合わなくても、言葉や顔の表情でコミュニケーションできるようになった。言葉というメディアの獲得は、人のコミュニケーションを格段に進化させた。顔の表情は感性的なコミュニケーションを豊かにした。

「線人類」は、かつては電話線で代表された電子的なメディアを通じたコミュニケーションが中心になった人たちだ。いま1日のほとんどの時間をスマホでLINEしている人たちは、典型的な線人類と言えるかもしれない。線人類は、顔を見せない匿顔のコミュニケーションを得意とする。

「点人類」は、ゲーム機やパソコンなどのメディアそのものとコミュニケーションする。そこにはコミュニケーション相手となる人はいない。人とのコミュニケーションは不得手でもっぱら機械がコミュニケーション相手となる。その方が自分の思うままになるからだ。

面人類から線人類、点人類へ。そう考えたきっかけは、1988年から89年にかけて起きた連続幼女誘拐殺人事件だった。アニメやビデオに囲まれた犯人の個室は、まさに点人類を想起させた。その点人類が動物的な犯罪を起こした。点人類が体人類に戻ってしまったような衝撃を受けた。

僕も含めて通信技術の研究者は、人のコミュニケーションを豊かにすることを目的としてメディアを開発してきた。それが結果として対面コミュニケーションを苦手とする線人類を生みだした。さらには点人類を生み出したとすれば、それで果たして良かったのかと自問せざるを得ない。