駅伝 2016.01.03-01.09

正月の風物誌に駅伝がある。ニューイヤー駅伝、そして箱根駅伝。テレビを見ながら、一人寂しく正月の暇つぶしをするにはちょうどいい。暮れに出せなかった年賀状を慌てて書いている人もいるだろう。それぞれの正月に寄り添うように駅伝がある。

駅伝は日本発祥であることから。Ekidenはそのまま外国でも通じる。競技としての駅伝は、東京遷都50周年記念として1917年に行われた「東海道駅伝徒歩競走」が最初らしい。京都の三条大橋から東京の上野不忍池までを昼夜問わず走り抜けた。それぞれの宿場(駅)をつないだから駅伝という。

考えてみれば駅伝は厳しいスポーツだ。一人で走るマラソンだったら、途中でリタイヤできる。成績が悪くても自分だけの問題だ。駅伝はそうはいかない。リタイヤしたら、そこで途切れてしまう。仲間の夢を打ち砕いてしまう。もう限界だと思っても、自らを鞭打ってタスキをつなげなければならない。

命をテーマとしたある講演で、人生は駅伝のようなものだと話したことがある。駅伝ではマラソンのように最後まで一人で走ってゴールすることは許されない。次にタスキを手渡した走者は、必ず競走から退く義務がある。人生も同じだ。人は退くために死ぬ義務がある。それまでは走る義務がある。

文化も、駅伝のようにして次の世代に伝えられていく。そこでのタスキはミームという文化の遺伝子だ。たとえ血のつながった子どもがいなくても、誰でもその駅伝に参加できる。自分が一所懸命生きた証が文化になる。それが次から次へ伝わっていく。

競技としての駅伝は、もっぱらスピードを競うけれども、人生の駅伝は違う。タイムは関係ないから、ひたすら前を見るのではなく、周りの風景を愛でながら走ろう。立ち止まってもいい。寄り道をしてもいい。駅伝で走ることの楽しさを次の走者に伝える、それさえできればいい。

人生の駅伝は伴走が自由だ。そもそも伴走と正規の走者の区別がない。かつて家制度があったときは、正規と非正規が決められていたけれども、いまはそれがない。自由に決めていい。重要なことは、それぞれに伴走がいるということなのだ。互いに伴走しながら助け合って走る。それが人生の駅伝なのだ。