重ね描き 2016.04.10-04.16

「重ね描き」という言葉がある。ときとして矛盾する2つのことがらを、そのまま重ねることだ。僕は中村桂子さんの著書「科学者が人間であること」で知ったけれども、もともとは哲学者の大森荘蔵らしい。最近この言葉が気になっている。

「重ね描き」を科学者にあてはめると、それは科学者としての自分と、一人の人間としての自分を両立させることだ。「科学的感覚」と「日常的感覚」を併せ持つことであると言ってもいい。対象を論理的に見る目と、対象に感動する心、それを併せ持つことが重ね描きをするということだ。

「重ね描き」は棲み分けとは違う。棲み分けは、割り切って整理をつけることだ。それに対して、重ね描きは割り切らない。整理もしない。棲み分けには理由や基準が必要だけれども、重ね描きにはいらない。ただ重ねるだけだ。

「重ね描き」は、先に描いたものを消さない。コンピュータで重ね書きをすると、元のデータが消える。重ね描きはそうでない。消さないでそのまま残しておく。たとえそれが下の方に隠れていても、突如として表面に躍り出てくることもある。それが重ね描きだ。

「重ね描き」には救いがある。2つの対立していることを、無理に決着をつけなくてもいい。それぞれを共存させていい。むしろ共存させることに意味がある。赤塚不二夫流に言えば「これでいいのだ」になる。これでいいから、救いになる。

「重ね描き」は白黒をつけないことだ。なぜか人は白黒をつけたがるけれども、世の中には白黒がつかない、あるいはつけてはいけないことの方が多い。どちらも大切なのだ。そのことに気づくと、重ね描きの意味がわかるようになる。一人の人間として生きていけるようになる。

「重ね描き」こそ、人生そのものだ。未解決の問題をそのまま重ねていく。それで大丈夫かと思うことがあるけれども、人生はうまくできている。都合の悪いこと、忘れたいことは、裏側に隠してしまう。そして、必要なときだけ表に登場させる。勝手に見えるかもしれないけれども、それが人生なのだ。