隠居 2016.05.01-05.07

僕は若い時から隠居することにあこがれていた。そしていま、古希を過ぎてそろそろ隠居してもいい年齢になったのに、それができていない。なぜできないのだろう。そもそも隠居とはどのような生き方を言うのだろう。

隠居とは、現役を退くことだ。旧民法では家督を譲ることだ。いつまでも現役を続けていたら、次の世代が育たない。人生はマラソンではなく駅伝だと、かつてつぶやいたことがある。いつかはタスキを渡さなくてはならない。それを積極的にすることが、隠居するということなのだ。

隠居とは、それまでの生き方に区切りをつけることだ。それに対して、生涯現役を理想とする価値観がある。いつまでも若い人に負けないように頑張る。その立場からは、隠居などは以ての外だろう。それはそれでいい。でも僕には、生涯現役はもったいなく思える。隠居こそ人生最高の時間だからだ。

隠居とは、いまという時間を大切にすることだ。明日よりも今日を愛おしむことだ。明日はないかもしれない。明日がないから、いまを我がまま(我が思うまま)に生きる。自分が好きなこと、面白いと思ったことを最優先でする。そのためにそれまでのしがらみを断つ。それが隠居するということだ。

隠居とは、世を捨てることではない。俗世間から自由になることだ。他人の評価を気にしない生き方をすることだ。隠居は隠遁ではない。隠遁してもいいし、無理してしなくてもいい。それぞれが勝手に決めればいい。要するに自由になること。それが大切なのだ。

隠居とは、もう一度子どもの気持ちに戻ることだ。言い伝えによると、良寛は縁側に遊びにきた子どもたちと鞠つきを楽しんだという。僕の隠居のイメージはこれに近い。子どもたちと一緒に、あるいは子どものような気持ちでいる人と一緒に、無心になれたら嬉しい。無邪気になれたら嬉しい。

隠居しても、なお大御所として影響力を行使したがる人がいる。権力は一度握ると手放せないのか。あるいは周りからちやほやされるのが嬉しいのだろうか。一人寂しく生きることへの恐怖があるのだろうか。いずれにせよ、そこには煩悩がある。煩悩から抜け出せないから、人は隠居することができない。