演ずるということ 2016.06.12-06.18 

小学校のとき、演劇に関心を持ったことがある。仲のいい友達と遊びで劇団を作り、脚本も自分で書いた。学芸会でのクラスの企画の中心にもなった。ほんのわずかな期間だったけれども、それは僕にとって貴重な経験になった。

小学校には図工、音楽、体育が必ずある。僕は、これに加えて演劇の時間があっていいと思う。それは身体を使った表現教育に他ならない。コミュニケーションのトレーニングにもなる。今の教育で一番欠けていることを、演劇教育で補うことができる。

演劇はロールプレイングだ。自由に他者になれる。男性が女性、女性が男性になれる。金持ちにも庶民にもなれる。高齢者さらには障害者の役もできる。その役に成りきることによって、その気持ちや立場を理解できる。演劇は他者を理解するための教育としても重要なのだ。

もう15年近く前になるけれども、顔関連のシンポジウムで異性装(女装)をしたことがある。新聞でも取り上げられて話題になった。その趣味があると誤解した人もあるかもしれないけれども、僕の気持ちは演劇であった。演劇であれば、どんな役を演じても恥ずかしくなかった。

考えてみれば人生は演劇そのものかもしれない。人は多かれ少なかれ、演じて生きている。その自分に陶酔することもあれば、自らを冷静に見つめ、白けながら演ずることもある。そのどれが本当の自分なのか、誰も区別できない。なぜならそのすべてが自分だからだ。

人生にはさまざまな演じ方があっていい。たまたま運がよくて、もちろん才能もあってスターになる人もいれば、脇役に徹する生き方もある。表舞台に登場せずに、演出を担当する人もいる。プロデューサになる人もいる。目立つのはスターだけれども、スターだけでは演劇はできない。社会も成り立たない。

人生を演ずるということは、決して自分を隠して嘘の生き方をすることではない。そもそも演じない生き方なんてあるのだろうか。問題はその役柄が社会の見えない構造によって与えられていることだ。そのことを普通は意識しないけれども、それを自覚して積極的に演ずる人生があってもいい。