超人 2016.07.10-07.16

昭和30年代に「スーパーマン」というテレビ番組があった。電話ボックスで変身するスーパーヒーローに、子どもたちは胸をときめかした。いま電話ボックスはほとんどなくなったけれども、人々の超人願望は衰えていない。むしろ技術の発達とともに、超人は夢ではなくなりつつある。

近代は人の能力の拡大を目指した時代であった。機械は手の能力を、交通機関は足の能力を、メディアは目や耳の能力を、コンピュータは脳の能力を拡大した。その結果、ヒトは超人(スーパーヒューマン)になった。いまその超人は更に能力を拡大しようとしている。

科学技術によって能力を拡大した超人は、生物学的なヒトよりもはるかにエネルギーを使う。地球はそのような超人をどのくらい養うことができるのか。すでにその限界は超えつつあるようにも思える。にもかかわらず、科学技術は超人を目指す。それはきちんと将来を見据えているのだろうか。

自ら努力して身体を鍛えて超人になることは社会的に推奨されている。オリンピックはそれを競う競技だ。それに対して他の力に頼ることは原則禁止される。ドーピングはその一つだ。機械に頼って超人になることはどうか。オリンピックは別として、それがどこまで社会的に許容されるか気になる。

遺伝子操作によって人体を改造して超人になる。いまの技術はそれを可能にしつつある。究極の超人は、不老不死になることだ。もしそれが可能になって、皆がそれを望んだら、次の世代がこの地球上に生まれる余地はなくなる。本当にそれが未来なのだろうか。

いま人は自分の能力をひたすらアウトソーシングしようとしている。そのうち人工知能によって知能までアウトソーシングするだろう。そのようにもっぱらアウトソーシングして超人になったとき、人そのものの能力はどうなるのか。機械の助けがなければ生きられない。それは超人と呼べるのだろうか。

現代哲学に大きな影響を与えたニーチェは、力への意志を持つ超人を理想とした。そのニーチェがいまの時代を生きていたら、機械の力を借りて超人となろうとしている現代人をどう見るであろうか。ルサンチマンに取り憑かれた哀れな存在、そう見るような気がしてならない。