等身大 2016.07.17-07.23

日本の戦後はもっぱら右肩上がりを追い求めてきた。その右肩上がりの時代はバブルの崩壊とともに終わった。バブル後は失われた○○年と言われているけれども、時代はすでに右肩上がりから等身大へと移行しているのだ。これからは等身大にどう生きるか、それが問われている。

もはや背伸びばかりを目指す時代ではない。スーパーマンはかっこよすぎた。むしろ半人前のパーマンに親しみを感ずる。さらに言えば、ありのままに等身大に生きる。いまの時代に難しいかもしれないけれども、そのような生き方もあっていい。最近、僕はそう思うようになってきた。

産業革命は地球資源を生産に変える技術を人類に教え、その後の近代は右肩上がりの時代となった。しかし考えてみれば、それは高々ここ数百年のことであり、人類の歴史の大半は等身大に生きてきたのだ。もしかしたらその方が人の本来の生き方だったのかもしれない。

いまは成長を前提に社会のシステムができている。等身大に生きようとすると、無理が生ずる。たとえば慎ましく節約しながら生きる。それはいいことだけれども、国民全体がそうすると、経済が成り立たない。社会の構造そのものを変えなければ、等身大は難しい。

ひたすら背伸びを目指すということは、裏を返せばいまの自分の否定、等身大の自分の否定だ。僕にはそれは寂しい生き方のようにも見える。もっといまの等身大の自分を大切にしていい。積極的に評価していい。その方が生き生きできるし、何よりも楽しく生きることができる。

等身大に生きるとは、決して現状に満足することではない。そこに安住することではない。むしろありのままの良さを再発見することだ。そして感謝することだ。いまの自分は授かったものであること、そしていまも日々支えられていることを実感しながら生きることだ。

背伸びよりも等身大に魅力を感ずるのは、僕の年齢のなせるわざなのかもしれない。一方で、若い人はやはり背伸びして欲しいとも思う。時代に追い立てられるのではなく、しっかり現実を見据え、未来へ向けて等身大に背伸びをする。そのような背伸びを望みたい。