日本ではあいまいな言葉に「公共」がある。公共事業、公共サービス・・・、これらはみな、官=行政がすべきことだとされている。住民は、そのために税金を払っていると思っている。本当なのだろうか。公共は官の役割なのだろうか?
そもそも公共とは何なのだろうか。公共と言っても、公と共は違う。例えば、公有地と共有地。公有地は地方自治体が所有する土地、一方の共有地は複数の所有者が共有している土地だ。その意味では公は官、共は私に近い。
「公」には二つの語源があるらしい。ひらがなで「おおやけ」と書くと、それは「おほ(大)やけ(宅)」で、大きな家、権力、官を意味する。それに対して、漢字で「公」と記すと、それは「私(ム)が開く(ハ)」になって、開かれた私という意味になる。
公共の公は官に近く、共は私に近い。そう考えると、これらは、「官・公・共・私」の順に並ぶ。問題は、官の役割と私の役割をどこで区切るかだ。共と私の間で区切ると、公共はすべて官の役割になる。いまの日本はこの傾向が強い。一方で、官と公の間で区切ると、公共は私が担う領域になる。
公共のすべてを官にまかせるのではなく、私が主体的に関わっていく。その立場から、私を最初にして「私・共・公・官」の順にそれぞれを記すと、まずは「私」があることを前提として、「共」は共同する私、「公」は開かれた共、「官」は託された公になる。
すでに官は財政難から公共を担えなくなっている。その背景もあって「新しい公共」が政府内で言われたことがある。これからは市民が公共サービスの担い手となるべきだとする主張で、それ自体は悪くない。ただ官が言い出すと考え込んでしまう。官主導の「新しい公共」は何かが違う。
DIYに対してDIOという言い方がある。DIYは自分のことは自分で(Do it Yourself)、DIOは自分たちのことは自分たちで(Do it Ourselves)という意味だ。当たり前のDIOがいまは行政依存体質になってしまった。そこからどう脱却するかが問われている。