人工知能と人の未来 2016.10.16-10.22

人工知能が話題になっている。マスコミは、人工知能があなたの職業を奪うと、脅しにかかっている。これについては、僕はほとんど心配していない。一方で、人工知能と人の未来には関心がある。それは科学技術のこれからのありかたに関係しているからだ。

人工知能は道具に過ぎないのだから、使いこなせばいいとする意見もある。例えば人を遥かに超えた運動機能を持つ交通機関を、人は使いこなしている。感覚機能も同じだ。ところが知的機能については、それを使いこなせる能力を人が持っているか。人工知能と人の関係を考えるとき、それが気になる。

人工知能は近い将来、人が嫌がることをすべて代行してくれる。例えば働くことはすべて人工知能にさせて、その収益を人に均等に分配すれば、真の平等社会が来る。人は好きなことだけをして楽しく暮らせる。この話を聞いたとき、ローマの傭兵を思い出した。ローマは傭兵によって滅ぼされた。

人工知能はまずロボットに装備され、そのうち人にも組み込まれる。それによってロボットは限りなく人に近づき、人は限りなくロボットに近づく。人とロボットは見分けがつかなくなる。本当にそうなるかは別として、もしそうなったときは、改めて人をどう定義するかが問われるようになる。

人工知能が人の知性を超え、その進歩を予測できなくなったとき、人はどうあるべきかが話題となっている。人そのものが「超人」になって、さらにその上を目指すべきだとする主張もある。人の遺伝子の操作も含めて、人を改造する技術の開発がいま加速している。

人工知能が自己増殖を果たすようになれば、それは新たな知的生物の誕生を意味する。その知的生物はホモ・サピエンスを滅ぼすことになるかもしれない。人工知能は、ホモ・サピエンスに代わる新たな人類を創造する。それが人類の進化だとする人たちもいる。

人工知能の研究は、もっぱら人を超えることを目指している。それだけが人工知能の未来なのだろうか。人を超えるのではなく、人がいることを前提として、人と共生する人工知能、それが本来の姿だった筈だ。背伸びをするのではなくて、ありのままの人を支える研究が望まれる。