どうしても理解できない難解な講演あるいは難解な文章に出くわすことがある。こちらの能力に問題があるからだとずっと思っていたけれども、もしかしたら問題は、難解な話をする方にあるのではないか。最近は居直ってそう思うことも多くなった。
難解な話(講演や文章)には、二通りある。内容が本当に難しい場合と、本当は易しいけれども、それをことさらに難しく表現している場合だ。問題は後者だ。難しく表現しないと格調が失われる。話し手がそう思い込んでいるときは、さらに質(たち)が悪くなる。
一般向けの話であるのにも関わらず、その分野でしか通用しない人名や固有名詞を、説明なしに連発する人がいる。あたかもそれに自己陶酔しているかのように。一見知識が豊富で頭がよさそうだけれども、単にコミュニケーション能力がないということなのかもしれない。
難解な話は、話している本人が内容をしっかり理解していないことが多い。話す本人がわかっていないのだから、聞いてわからないのは当然だ。わかりやすい話をするこつは、わかったことだけを話すことだ。難解な話が多いということは、それが実際には難しい。そういうことなのだろう。
哲学が難解なのは、それが論理性を重視するからだ。自然言語は必ずしも論理的とは言えないから、論理性を確保するためにその分野でしか通用しない人工言語で表現する。それはもはや自然言語ではないから、一般人は理解できない。初めての外国語がまったく理解できないように。
直観が並外れた人の話は、やはり難しい。論理的に説明する力が直観に追いついていないからだ。あるいはそもそも論理的に説明できないことを話しているのかもしれないからだ。これは芸術系の人に多い。そのような話は、論理的に聞くのではなく、素直に耳を傾けて直観を共有するようにした方がいい。
難解な話を聞くこつは、無理に理解しようとせずに、そこから自分で考えるためのヒントを少しでも貰えればと割り切ることだ。そのヒントを自分なりに膨らませることができれば、話し手も気づいていなかった素晴らしい発見がある。その意味では、わかりやすい話よりも難解な話の方がためになる。