人が生きる上でなくてはならないものは何だろうか。もちろん沢山あるだろうが、その一つに「居場所」がある。自分に居場所があると思っている人は幸せだ。そうでないときは居場所を求めて彷徨う。物理的にも精神的にも、どこにも居場所がないと思ったとき、人は生きる意味を見失う。
人間関係に疲れたときは、一人になれる場所が居場所になる。家庭で、狭くてもいいから自分の書斎を持ちたいと願う父親は多い。それも難しいときは、トイレが居場所になる。そこは誰からも見られない、誰にも邪魔されない場所だ。あまり長くいると、ドアを執拗にノックされるけれども。
かつてご隠居さんの居場所として、縁側があった。そこは安心して居眠りができる場所であった。さらには開かれた社交の場であった。落語では、そこで熊さんや八っつあんに講釈を垂れる。それはご隠居さんの生きがいだったのだ。いまはどこが老人の居場所になっているのだろう。
家庭で親が子に干渉しすぎると、子は居場所を求めて個室に籠る。あるいはゲームの世界に逃げようとする。親は逃げられては困るから、その居場所も潰しにかかる。結局、家庭は子の居場所ではなくなる。子は家庭から追い出されて、外に居場所を求めるようになる。
ある教育に関連する集会で、学校において最低限必要なことは、生徒全員それぞれに居場所があることだと述べた。学校が例えば有名校への受験一辺倒になると、それについていけない生徒は居場所を失う。そのような落ちこぼれの生徒にも居場所をしっかり確保する。それが教育の基本だと信じている。
社会で居場所をどう見つけるか。そこで重要なことは他人を基準にしないことだ。例えば職場で、他人に比べて自分が認められていないと思うと居心地が悪い。自分に居場所がないのは周りの人のせいだと思うと、自ら居場所を失う。居場所は自分で作るもので、与えられるものではない。
居場所は、安心していられる場所だ。心の居場所も大切だけれども、まずは物理的に居場所を探すことから始めよう。例えば行きつけの店を見つける。昔の喫茶店は、長く粘っていると店員から睨まれたけれども、最近はセルフサービスのコーヒー一杯で、何時間でもいられる店が増えた。