食事 2016.12.18-12.24

食事という人の営みは、単なるエネルギー補給ではなく、それ自体が文化であるとされる。和食はユネスコ無形文化遺産になった。それは良いことだけれども、その文化としての食事が、おかしくなっているのではないか。最近そう思うことが多くなった。

ほとんどの動物は、一部の例外は除いて、基本的に自分で採取したものを自分で食べる。食事を共にすることはない。直立二足歩行を始めたヒトは、自由になった手を使って食物を運搬して、それを共にした。その共有の最小単位が家族であった。家族は食事を共にすることによってつながっていた。

かつて日本では、茶の間やダイニングルームの食卓で、家族揃って一緒にとっていた。そのお誕生日席には家長である父親が座っていた。戦後、その席をテレビに明け渡した。みなテレビに向かって食事した。そのテレビが個室にいくと、家族の食事はばらばらになってしまった。

いまや個食あるいは孤食の時代となった。その相手をしているのはもっぱらスマホだ。果たしてそれで、料理の味がわかっているのだろうか。感謝の気持ちを忘れずに食事をしているのだろうか。食事の後にきちんと「ご馳走様」と言えているのだろうか。

料理の美味しさを決めるポイントは何だろう。僕は誰と食事を一緒するかではないかと思っている。グルメ評論家と一緒のシンポジウムの席でその自説を披露したら、聴衆が大きく頷いてくれた。食事の席での話題も大切だ。食事を美味しくするのは、相手との共同作業なのだ。

食事は人と人をつなぐメディアだと言っていい。外交も食事を共にすることが基本だと聞いたことがある。大切な行事には必ず食事がある。国際会議でも、その中心行事はバンケットだ。まずは食事によっていい人間関係をつくれば、何事も万事うまくいく。

苦楽を分かち合った親しい関係を「同じ釜の飯を食った仲」という。人は食事を共にすることによって、コミュニティとしての帰属意識を高めてきた。その食事が、家族というもっとも身近なコミュニティで疎かになっている。家族を取り戻すために、まずできること。それは食事を共にすることだ。