太陽が地球を回っているのか、それとも地球が太陽を回っているのか。地動説が正しいとされている現代で、このような質問をするのは頭がおかしくなったと思われるかもしれない。でも、僕は一人の人間として太陽を眺めるとき、やはり太陽が回っているように見える。
地動説と天動説、実はどちらも正しいのかもしれない。それは座標軸の原点をどこにとるかだ。宇宙に原点をとれば地動説、自分にとれば天動説になる。一般に科学は、原点を自分とは離れたところにとる。一方で哲学は自分にとる。それが客観と主観の違いだ。原点のとりかたによって見え方が違ってくる。
デカルト座標と呼ばれているものがある。我々が普通に使っている直交座標系だ。実はデカルトは数学者であったのだ。数学的な見方で事物を解釈しようとした。「我思うゆえに我あり」は座標軸の原点だった。このような座標的な考え方が近代の科学を切り拓いた。
座標軸は、その取り方によって対象が見えやすくなる。例えば、直交している座標軸を回転させる主成分分析はその手法の一つだ。数学的には難しくなるけれども、座標軸は直交していなくてもいい。曲っていてもいい。複雑な世の中の現象は、少しひねくれた座標軸で見た方がいいこともある。
現実の世界には存在しない架空の座標軸を加えて、その空間で眺めると、美しい世界が見え出すこともある。数学では、実軸からなる実数の空間に虚軸を加える。そのようにして作られた複素空間は、実空間よりもはるかに数学の体系が美しくなる。量子力学はそこで生まれた。
数学的には座標軸そのものには意味や価値はない。社会はそこに特別の意味をつけたがる。例えばIQという座標軸がある。それ自体は単に数値に過ぎないのに、その値によって人を選別する。人は選別するために座標軸を利用する。科学的な装いをまとった差別がそこに生まれる。
人はそれぞれ自分の座標軸でものごとを解釈して評価する。そして自分の座標軸が絶対であると考える。一方で、たとえば男と女、大人と子ども、科学者と市民、それぞれの座標軸は異なっている。自らの座標軸を相対化しなければ、本当の対話は生まれない。